安国寺の住所
  福岡県久留米市山川神代1−5−21
      TEL 0942−43−2668
      FAX 0942−43−2672

安国寺の歴史  
神代山 安国寺は、白鳳(白雉)二年(651)約1,350年前、中国南都東大寺より来朝した萬法唯一大師が萬法寺(ばんぽうじ)と号し、開山したのが始まりです。高良山神裔と称する神代氏が堂塔を創建したという。
当地は筑後川川渡河地点神代渡にあたり、古代から交通の要地である。開創者の神代氏は鎌倉期には神代渡しを管理掌握した氏族であった。又、当時の高良山は天台宗で、神代氏は神裔を称するところから、当時も天台宗の寺院であったと思われるが、乾元2年(1244)万法守一が中興し 臨済宗聖一派へ改宗した。暦應2年(1339)筑後国安国寺となり 寺号を萬法寺より安国寺に改称した。2世月庭守暗が開基となっている。足利尊氏は寺領300石を寄進する。

安国寺は最盛期には塔頭9院、末寺20ヶ寺を擁したが、交通の要地にあることから、たびたび兵火にあい 戦国期には寺勢も振るわなかった。この時期に 大友宗麟が神代渡賃米100俵を寄進したと伝える。

天正15年、島津攻めのため九州に下った豊臣秀吉に再興を願い出て除地52石の寄進をうけている。この処置は後世にも受け継がれ、慶長6年(1602)筑後国主田中吉政も寺領52石・神代渡賃貫米100俵を寄進している。田中家改易後、領主となった有馬家も同様に処置を行っている。

又、江戸初期の13世桂巌宗嫩は伽藍の復興に尽力し中興と称されるが慶安元年(1648)初めて南禅寺に登山し當寺が南禅寺派寺院としての位置を定めた。現在寺内には本堂・山門(平成3年に台風で倒壊す)・観音堂(平成3年に台風で倒壊す)・鐘楼・庫裡・旧納骨堂・新納骨堂(平成10年新築)などがぞんする。

又、境内の古井「金剛泉」は三井郡地名の由来の三井三泉の一つと言われている。

本尊は木造釈迦如来像は、高さ115pの欅材の寄せ木造りです。胎内の墨書によれば、建長元年  (1254年)に造立されています。
 仏像は蓮台に座り、玉眼は白龍水晶入りで、手は与願印を示しています。なだらかなる肩の縁と動きの多い衣紋など、鎌倉初期の典型的な中国の宋様式が見られる仏像です。写真

安国寺にあるマリア観音

安国寺の墓地に遺存する石仏で、高さ50p弱、連座上に座す。両手で宝珠か薬壺らしきものを抱えており、一見薬師如来風であるが、螺髪も見えず肩口から背にかけて長く梳きおろしていかにも女性像を思わせる。又、耳朶を横切る不自然な毛髪部分があって耳全体がクルス状を呈すると見る向きもあり、マリア観音と伝承されている。台座に元禄(1695)の銘と「草賀部」の刻字がある。草賀部とは迫害を恐れての偽名と見られ、当時キリシタンの指導的立場にあった今村(現三井郡大刀洗町の中)の青木家歴代の墓地の中にあったと考えられる。柔和な表情と優美な姿態で、石仏は謎を秘めて語りかけている。

いつの頃か定かではないけれど、当時の信仰の一つにキリスト教の教えも地域住民の中にあったと見えて、隠れキリシタンの墓石のマリア像も墓所の一角にひっそりとあります。
近年になり発見されたものです。      写真